時代の怨念と供に沈んでゆく人柱と、
歴史の大河を悠然と漂う茶柱。
人柱は、時代の空気を敏感に察知し、その身に取り込んで体現してゆく表現。
鋭敏ゆえにやがて取り込まれ、望み望まれる共依存のかたち。
言わば時代の病理の切っ先、何処かに突き刺さってパキンと棄てられる哀しき替刃。
歴史を語る事は、いま生きている人間を死者として語る事、あるいは死んだ人間を生者として語る事です。
人間の心を打つという事は、必ずしもその時代の意志に従う事ではありません。
人が幸せだろうと不幸だろうと、変わる事無く響くものです。
藝術は人柱ではなく、飄々と漂う茶柱のような希望ではないかと感じています。
ダラダラと、制作の過程というか、意識の変遷を書いてみます。
まずこの絵を始めるときに、ふすま絵みたいなのをやりたいな、というのがありました。
たまたまこれより以前に描いた30号の絵をふすまに立て掛けて置いたとき「あ、なんかこのふすまの白も含めて一枚の絵くらいでちょうどいいなあ」と感じたのがきっかけです。
そう思うと、自覚してる以上に大胆に白を残さないとならないぞ、と覚悟することになりました。
それで、「森とダム湖」みたいたのをいつか描こうと思ってたんで、とりあえず上の方に森を描き始めました。湖はまあ余韻で感じるくらいに出てくればいーかなと思ってたんですが、なんだかひと気もない寂しい絵になってきて、これでは救いがないなあと思って、花を咲かせたくなりました。
線の細い繊細で綺麗な花が良いなと思ったのと、自己に対する尊厳というか気高さみたいなものを表したいなという思いもあって、水仙にしました。この時期、世阿弥の風姿花伝を読んでた事も着想のきっかけにあるかもしれません。
水仙、花言葉は「気高さ」。
自惚れやナルシシズムなどの否定的な意味合いで例えられることもありますが、絶望的な状況の中で全てを手放してしまうことから人を救うのは、この気高くあろうとする精神じゃないかと感じるからです。
純粋芸術という言葉があります。ファインアートとか言ったりする言葉で、ざっくり言うと「芸術のための芸術」ってやつです。娯楽だとか用途だとかを拒否したところにある潔癖で純粋な芸術のことです。
でも、この「純粋芸術をやってる人」と「純粋に芸術をやってる人」が微妙にイコールじゃないのが妙な話だなーと常々思ってす。
きれいな絵はたくさんあります。
上手な絵もたくさんあります。
個性的な絵もたくさんあります。
衝撃的な絵もたまにあります。
哲学的な絵もまれににあります。
現代を象徴したような絵もけっこうあります。
どこかしらで秀でていれば、それぞれに通用してゆくと思います。
ただまあ、それらは有るに越したことはないけど、それでなくても別にいいような感じが残ります。
僕がいい絵だなあと感じるのは、心に沁みる絵です。
といってもただ情緒的な絵という訳でもありません。
そこに描かれた何かを通して、五感の記憶が喚起されるような何かを持っている絵。絵を眺めていると、現実の時間や空間の感覚を飛び超えて、絵の世界に陶酔することができるものです。
こういう表現の妨げになるのは作者の作為的なところや、雑念、恣意のようなもので、チラチラそういうのが観えてしまうと、もう絵を無心に眺める気になれません。
これは表面的なモチーフやテーマで感じるというよりも、描いた人の心根がみえてしまうということで、なんてこと無い卑近なものを描いていても感動する絵もあれば、立派なテーマで巧みに表現されていても胡散臭いなあと拒否してしまう絵もあるようです。
ここのところ日課のように北斎漫画の模写みたいなことをやっていました。
▲姿は似せがたく、意は似せやすし。
贋作もいーとこです…
北斎の模写は、写生のように形を写し取るというよりも、その筆遣いとか呼吸とかリズムを憑依させて、北斎になり切るくらいのつもりでいかないと上手くいかないみたいです。
結果として、自分の線のなまくらさと勘どころの悪さにいい加減ヘコんできました。
まあ、あんまりヘコみ過ぎてもなんなんで、そろそろいーかなと、今度は自分のリズムでやってみることにしました↓
相変わらず線はへなちょこでガッカリするんですが、いいキッカケを貰った感じがします。
これまで、ボールペンで無数の線を重ねる事で表現してきましたが、結局は自分が"線一本"で表現できる事がその表現者の本質なんじゃないかと思ったんです。そこにいくら線や色を足そうが、それ以上の表現に化けることはないんじゃないか、もっと言えばこの線描は自分の等身のようなもので、良い所も悪い所も全部出てしまっているんじゃないか、と。
ピカソの父は「手の表現を見ればその画家の力量が解る」とピカソに教えたそうで、僕も冷や汗をかくような話ですが、線描に挑戦して自分の持ち味を再発見してみるのも面白いんじゃないかと思います。
ボジョレー解禁に併せて、墨の使用を解禁にしました。
これまで描いたボールペン画としては最大の80号に挑戦し始めたのがきっかけです。
とにかく画面が大きいのですが、それに伴う労力的な問題より、ほっそーい線が離れて見ると弱くて全然活きてないという問題を感じたからです。もっとダイナミックな線がのたうちまわってないとダメだと思ったんです。
最初は筆ペンでお茶を濁してたんですが、やっぱ線がつまらないのですね。もっとグワっとして、ガガッと暴れてる感じが欲しいんだっ!と長嶋茂雄みたいな状態になってきて、筆と硯と墨を買ってきました。
▲左の板っ切れは、こいつに墨付けてザーッと擦ったら面白いんじゃないかと入手。
ボールペンで描いた上から墨を持ってきたり、墨で荒らした表情を活かしてボールペンを引っ掻いたり。元々油絵をやってたので、輪郭ありきでない、抽象的なニュアンスからイメージを拾うのは経験済みです。
やっているうちに、少しずつ画面の大きさとタッチの大きさが噛み合い初めてきました。
これまでボールペン画でデカイのをやりたくなかったのは、この“タッチと画面全体の噛み合わない感じ”を嫌ったところもあります。僕のボールペン画は、線一本一本のかすれとかブレとかゆらぎが空間を成立させているので、ひろく面積を塗り込めるような、線のいきないボールペン画は不本意なところです。
さて、もうひとつ。筆だけサイズに併せてもまだまだ弱い。
次は肉体です。画面と筆が大きくなったら小手先で描いてる場合じゃない。手首、腕、肩、腰、股関節、膝、足首、そして足の親指!全身を連動させる必要が出てきた訳です!
そこでハリウッド俳優が役づくりで肉体改造する感じで、僕も筋トレとジョギング、股関節のストレッチを始めました。
この絵が仕上がる頃には、三島もビックリなマッチョになっているかもしれません!
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