2011年3月13日 美と混乱について

   世阿弥という人が「ときによりて、用足るものをばよき物とし、用足らぬものを悪しき物とす」ということを言っています。
 現代くらい各々の自我とか自負が大きくなると、誰が何をやってもお互い様ですし、そういう状況を無責任にでも奨励する方が、なんか柔軟な大人を気取れたりもします。
 
 しかし、その自負が「用足るもの」に達するほどに自分を深く追求するのは非常に難しいことだと思います。「自分探し」程度の追求では、何が「用足るよき物」なのやら、ますます混乱してゆく気がします。

 しかし、世阿弥は「あまねき好みによりて取り出す風体、これ、用足るための花なるべし」と言っています。つまり、その判断はその時代の観客の好むところにあると言っているわけです。もっと言えば、みんなが普通に良いと感じる物がやはり一番いいもので、アーティストや評論家の頭の中に美があるわけではないと戒められます。



 2011年3月29日 絵でご飯を食べるということ

   絵だけで生活することが「絵描きになる」ことでもないように感じています。かつてボリス・ヴィアンが「精神的売春をする以外、創作だけで生きていけるものではない。それがいやなら他の仕事をすることだ」ということを言っていて、それを読んだ当時20代だった僕はまさにその通りだと思っていました。
  30を過ぎて、絵を買ってもらう機会もそこそこ増えて来て、それで考えが変わったかというと、なかなかそうでもありません。絵で生計を立てようと思えば、確実に売れる物をある程度の単価でコンスタントに生産してゆくことが必要になります。こうなれば芸術なんて呑気な事は言っていられません。粗製濫造がいやなら単価を上げるしかないわけですが、例え何十万、何百万で取引される大家になったとしても、普通に絵の好きな人の手の届かない代物になるのは何かいやです。

 とまあ、こんなことをずっと考えていても未だに着地点はわからないままなんですが、重要なのは自分が一番大切にしたいところを見失わず、そこを始点に他の事を決める事だと思っています。
 状況によって課題は変わるし、こればかりは各々自由すぎてお手本のいない道なので、自分の脚でしっかり歩いて行くほかありません。



 2011年6月19日  震災と絵について

 今年の4月頃から、30号の絵を描いています。
 震災をテーマに絵を描くようなつもりはなかったですし、ただ無心に自分の絵を描くまでだと思っていたんですが、どうも心理的に何の影響も受けないわけにはゆかないのかも知れません。

 昨年辺りから漠然と「大量の水をたたえたダム湖の風景」を描きたいと思っていて、そのつもりでパネルを買って来て水張りまでしたんですが、いざ描こうと思った瞬間に何を血迷ったか「人体の図をかこう」と突然に決めて描き始めてしまいました。

 そして絵が出来上がってゆくうちに、昔読んですっかり忘れていた谷崎の『少将滋幹の母』にでてくる「不浄観(ざっくり言うと、野ざらしにされた亡骸が朽ちてゆくのを眺めて、自らの肉体も世の中も不浄のものであると悟る、みたいな仏教の修行法)」の話がぼんやり甦ってきました。


▲現在描いている絵(一部)

もちろんこれが「時勢をとらえた立派なアートだ」とかぬかす気はさらさらないんですが、どうも自分の中でグロテスクなイメージばかりがでてきて仕様がありません。震災後に芸術がすべきことがチャリティーをはじめとした「ヒューマニスムの伝導」みたいなことばかりにいってるのは僕にはしっくり来ません。そういうのは企業やもっと立派な人格の皆さんがやってくれるはずで(皮肉ではなく)、芸術なんかに現をぬかしている僕らはもっと人間の持つ汚い所を 突き詰めていかなくちゃしょうがないんじゃないかと思うんです。



 2011年8月17日  絵の力について

 所詮は絵に過ぎないと言っても、ただの絵空事で人の心が動くものではありません。頭の先っちょばかりが動く生活をしていると、描く絵までぼんやりとしてくるような気がします。視覚的な「かたち」として対象をとらえたり表したりするのが「絵描きの力」というもので、そこをおろそかにはできないと改めて感じています。

 これは写実画や具象画に限ったことではなく、抽象的な表現であっても同じで、構造をゴリッと手で掴んだような強い視覚に支えられた絵は、どんな訳の分からないような絵でも、消え入るような繊細な絵でも、はっきりと良く見えます。

 イメージの源泉になるような強い体験を持たない現代の絵描きは、どうも苦し紛れに些細な個人的体験を大袈裟に作品化してみたり、テレビやマンガ、映画で見たようなうろ覚えのイメージをそのまま引っ張り出してしまいがちで、その結果として迫る所の無い弱い表現が生まれてしまうのではないかと感じています。
 その至らないぼんやり感を「現代性の象徴だ」みたいに過大評価してしまうのは危うい気がするし、かといってただの写実まで時代を引き戻してしまう必要も無いと思います。この現代を「力強い絵描きの眼」で生きて表現していけたら、はじめて後世に残る現代の絵が生まれるんじゃないかと思っています。



 2011年9月19日 空間の亀裂のようなもの

 絵でも写真でも現実の風景でも、調和を超えた一種の破綻のようなものにドキリとさせられることがあります。そういうのを勝手に空間のほつれとか裂け目とか呼んでみます。これらは隠し味のようなもので、一見しただけですぐ主張してくるものではなく、まずはちょっとした違和感として残る気がします。その残り香を反芻してたどってゆくと、はたとその正体に気付くことがあります。



 この茶碗を没頭して描いている時に、その逆の流れのような現象が起きて、最後に茶碗ごと空間をパキリと裂くイメージが湧いて、そこで絵が決着した気がしました。このビビによって絵画の平面性、虚構性を強調を意図した、ということではなく、このビビに一種の重量感と言うか生命感のようなものさえ感じるほどの強さで、ハッキリとそこにたち現れて見えたんです。



▲この絵の首筋のニョロッとした髪にも同じ感じがあるように思います

 「気がした気がした」と根拠のない寝言みたいなことばかり書きましたが、頭より眼の方がよっぽど出来が良いのが絵描きじゃないかとも思うので、なんとなく解ってもらえたら嬉しく思います。



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