僕は基本的に大きいペン画を描きません。理由はいろいろあって
@普段からクロッキー帳を持ち歩いて、喫茶店の隅っこで絵を描いてるため。
A僕のタッチの密度で大きいのをやろうとすると、線を引く楽しさが、
空間を埋めるための作業になりそうで
気が滅入るため。
Bスピード感が損なわれ、考え込んでしまうため。
C体力の限界!
などです。
もちろん巨大な作品の力も知っていますが、例えば自分のペン画が超巨大で、観た人にものすごいインパクトを与えたとしても、なにか僕の望む見え方と違ったものになってしまうだろうなあ、と感じます。あくまで、線の一本一本の細部、あるいは線にすらなっていない引掻き傷にまでわけいって欲しいんです。
今やっているのはおよそ木炭紙サイズで、A6サイズクロッキー帳の落書きからスタートした僕のペン画からすると「思えば遠くへ来たもんだ」って感じです。A6サイズでの即興性や瞬発力は失速しますが、瞼の膨らみや、睫毛一本のしなやかな流れにまで気持ちを込めることが出来るようになりました。
大きいのがいいとか小さいのがいいとかよりきっと、表現に適したサイズがあるのだろうと感じます。
細密に絵を描く方法は、版画だったりテンペラ画だったりといろいろありますし、鉛筆を使えば消したりぼかしたりもできます。じゃ、なんでボールペンなのかって言うと、どーやらそのシンプルさが僕の中では重要みたいです。
ボールペンの特権は、インクが切れるまでひたすら「描き続けられる」ことです。そして手の動きがそのまま絵肌になってゆくことです。また、修正が利かないからこそ迷いが消えて「もう進むしかない!」となります。
以前はこのスリリングさをジャズのアドリブのように捉え、破綻へ向かうギリギリを狙って楽しんでいました。
最近では逆に集中するほど「空っぽ」のような状態に近づいてゆき、絵との静かな対話が始まります。恣意的な感覚が薄れて、絵が心地よいとうったえかけてくるところに「どうぞ」と線をおくわけです。
なんて言うと、植物に話しかけてる頭のおかしい人みたいですが、要するにこれは、自分のDNAに刻まれた太古からの美の記憶をできる限り不純物を取り除いて抽出しようとゆう、コーヒードリップ的な試みなんです。
まあしかし、あまり気負って美の世界に突き進むと「帰って来れなくなる」おそれがあるので、気をつけようと思います。
あんまり立派になって人間くささを捨ててしまった表現は、どーにも魅力を失いますからねぇ。
抽象画か具象画かということは今さら問題ではないですが、僕はどこかに「抽象性」を持たない表現をあまり信用していません。
人間個性的になればなるほど、カラーというものが消えて「ただの存在」に近づくような気がしています。この漂う抽象的な存在を核にして、たまたま具体的な何かが結晶を結ぶのだと思います。そしてこの核を持つ表現は、何を描こうと、何をまとおうと、その人の本質が伝わる気がします。
また逆にそれを大事にしてない表現を前にすると、どんなにもっともらしいメッセージや表層の技術があっても「嘘だぁ」と思ってしまうんです。
▲最近は具象画と並行して、抽象世界でも遊んでいます。(個展でも展示した「雨のリズム」)
昨年美術館でハンマースホイを観ました。完全にいわゆる具象画でありながら、目の前の具体物を通過して、その奥に閉じ込められた、きっと彼が永遠に刻みたかったであろう時空に連れてゆかれました。絵ってこういうもんだよなぁって思いました。
言葉や記号で説明することは、伝えるには手っ取り早く説得力もあります。けど、絵描きが「表現して伝えたい、でも言葉にできないこの感じ!」みたいなことを信じなくなったらおしまいな気がします。
僕もようやく、絵描きとしてそういうのを誤魔化さず大事に出来る程度には覚悟がついてきました。表現の志はまだまだはるか先にあるんですが、とにかく歩いてゆこうと思います。
最近A6サイズのクロッキー帳で絵を描いてなかったので、気分転換に始めてみました。
通勤電車で白洲正子の「西行」を読んでいるのですが、ところどころ挿入されている旧跡のごく小さなモノクロ写真が、とても想像力を掻き立ててくれるのです。そんな中のひとつに、古い森を前にした鳥居の写真がありました。
八王子にいた学生時代、夜中に煮詰まると森の方を散歩して物思いに耽っていたのですが、あるときのこと、完全に道に迷った挙げ句、前方の真っ暗闇から古びた鳥居が視界にふわっと現れて、恐怖で失禁しそうになりました。
そんな個人的な体感もからめつつ、森と鳥居の風景を描いてみました。
田園だとか街の中に唐突に森が残っている風景が、個人的になんかドキリとします。
僕は東京生まれでもヒップホップ育ちでもなく、悪そーな奴はだいたい避けて通る長野県生まれです。中学生時代には学校行事で強制的に3000メートル級の霊山に登らされたりもします。(しかも地元の中学生がこの行事で集団遭難、死亡した過去のエピュソード を教訓(脅し?)として聞かされた上で行くことになります)
そんな自然への恐怖の記憶がこの絵には込められているかもしれません。
ずっと喰わず嫌いな感じで絵を額に入れるのがイヤで、展示を始めた当初はそのまま絵を壁に貼付けて展示していました。最近ではそれもさすがに品がないなあと思うようになり、昨年の夏、初めてきちんと額に入れて展示してみました。
すると、絵の力がぐっと凝縮されて強まり、物質的にも重厚になって、これが額装の力かあ、と目から鱗がこぼれました。
▲昨年の東向島「こぐま」での展示風景。落ち着いた色合いの木棚と
額に収まった絵がいい緊張感を生み出しています。
しかし、自宅に飾ってみると、額縁とガラスに覆われた絵が部屋と断絶している感じがして、なんかカッチリしすぎるんだよなあ、と思ったんです。
そんなおり、大きめの絵をふすまにペタリと貼付けて描いてたら、妙にふすまと絵が響き合っることに気づきました。しかも、絵の女性が貞子みたく外に出てきそうで、「ふすま絵みたいなことできたらいいなあ」と思うようになりました。
また、ちょうど読んでいた白洲正子の本に「西洋の額は作品を閉じ込める為のものであり、日本の表装は外に開くためのものである」みたいな記述を見つけて、日本人はとうの昔にこの断絶問題を解決していて、大和絵は表装してあるんだなあ、とたまげた訳です。
▲思い立ったが吉日。早速簡単な色紙用の掛け軸に飾ってみました。専門的な知識が
必要みたいですが、本当はちゃんと表装できたらいいなと思います。
今年はじめの個展の時、繊細な紙という素材故に湿度でうねったり、画面が汚れていることについて賛否ありました。けしからんという意見もあれば、そこがかっこよかったという意見もありました。僕は繊細な素材の危うさや、人の手て描くことで生まれる汚れや染みは愛すべきものだと思っていたんですが、展示作品が額にキッチリ収まっていたことで、売り物、製品のように捉えられてしまったのではないか、とも感じました。もし紙が紙として目の前にあれば、自然にその味わいを感じられるかもしれません。
と、まあそんなわけで、とりあえず来年の三月に個展が決まりましたので、ひょっとしたら表装された作品が、僕の資本金の許す範囲で飾られるかもしれません。。。
亀の歩みで刻み続けた絵が、ようやくかたちをなしました。
僕のような細密な表現でやみくもに絵が大きくなると、その表現の繊細さや美しさよりも、かかった労力が凄いだけの「頑張ったで賞」に陥る危険性を感じていたのですが、今回はじめて挑戦した大きさでは、ただの細かい線の集積ではなく、線一本一本がそのままを絵の質となって、不思議な生命感を生み出せたように感じています。
まだまだいろんなものが自分には足りない気もするんですが、それでも、好きなようにこだわって絵が描ける事は、とても幸せなことだと思います。
そして、せっかくですから実物を見ていただく機会を設けたいとも思うのですが、とりあえず本作は某絵画の公募展に出してみることにしました。
目の肥えた審査員にこの娘がどう映るものか、なかなか楽しみなことです。
僕にとってはいつものことですが、白紙から下描きなしのインスピレーションまかせで描いているので、描きはじめがあまりかっこいいもんじゃありません。
一体どんな完成形をなすのか、自分にもわかりませんし、うまくいく保証もありません。
なんでこんな博打みたいな描き方をするかというと、まあ、性にあってるからだと思います。計画をしっかり練って、写真資料なんかもバッチリ用意して、それにより最終的な作品の完璧度が増したとしても、そんなレール通りの予定調和な作業はやだなあ、と僕なんかは思ってしまうわけです。
ところで、不思議とこのやり方で失敗した〜!と投げ出したことがありません。
これは僕の未熟さ故かもしれませんが、自分が最初や途中で想定してるイメージなんてだいたい当てにならなくて、「これは失敗かな、、」などといった一時の甘い見切りは気にしないで、ちゃんと手を動かしていけば、必ず好きな作品に仕上がってゆくことを知っているからです。
自分が気持ちを注ぐことを怠って途中で放棄して、作品を出来損ない呼ばわりしてはいかんぞと思うんです。
描き始めたばかりの新作、関わってしまったからには一人前に育てていきたいと思います。
絵描きも評論家も画商も、元々はただ絵が見ることが好きだったんだと思うのですが、
その道で一丁前になってくると、職業的な眼で判断してわかったつもりになってしまいます。
自分について思い返すと、そもそも絵描きなんて自分事で精一杯の垢抜けない人間が、ついに観念してなってしまうもののような気がしていて、だから人様の作品や想いに対して、とても鈍感なわけです。
人の絵を観ても、技法がどうだ、構図どうだ、色がどうだ、発想がどうだと、そんな話はできても、素朴に感じたことが言えなくなっているんです。
経験からでてくる言葉が邪魔をして、絵を絵として感じとるゆとりがないんです。
最近ではそのことに自覚的になっているので、絵を見るときにはまず深呼吸して、両足をしっかり地に着けて、頭を真っ白にして、体全体で絵を浴びるように感じます。
いい絵をじっと観ていると、ふっと何かがよぎって、それを捕まえては、言葉にします。
きっとそれが作者の感じていた世界なのだと思うからです。
これが今の僕なりに至った見方です。絵から汲み取れることが深くなる気がします。
そして自分が鑑賞者にたちかえると、自分の絵が少し客観的に見えてきます。
美を押し付けたり説明するのではなくて、信じて託すことができたらいいなと思っています。
どれか一つにいってしまうのは容易なことですが、どれをも捨てられないのが芸術らしさです。
何かは何かの足を引っ張るわけですが、だからといって一方を切り捨てて抜きん出たところで、ただ速いのが一番のかけっこと変わりありません。
芸術なんて不確かなものに、自分なりに試行錯誤して、ようやく足場を築きます。
その危うい足場を確かめるために、自らハンマーを振り上げて、足元をぶっ叩きます。
ひっくり返って頭をぶつけて、その偏りに気付きます。
美しさとヒューモア、そのバランスを支える確かな技巧が持てたらいいなと思います。
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